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『ファッションと身体』

今回は、ジョアン・エントウィスルの『ファッションと身体 The Fashioned Body』(鈴木信雄監訳,2005,日本経済評論社)について書きます。

著者の、ジョアン・エントウィスルがこの邦訳本のもととなる『The Fashioned Body』を英国で出版したのは2000年。当時、彼女はエセックス大学の社会学部の先生でした。現在は、キングス・カレッジ・ロンドンで教鞭を執っています。

この『ファッションと身体』という本のなかでエントウィスルは、ファッションというテーマに対する数々の研究を紹介しながら、その根本には「身体の欠落」という大きな問題があるということを指摘しています。
この“数々の研究を紹介”というところが、かなり読みごたえがあります。
まずは、「ファッション」や「お洒落」「衣服」「衣装」などの言葉の整理から、それぞれの語彙の定義といった基礎から始まり、19世紀の社会学者ソースティン・ウェブレンから最近の研究事例にいたるまで、かなり広範に紹介しながら、そのどこに問題があるのかを考えていくのです。

それらを踏まえた上で、エントウィスルはこれらのこれまでの研究には「身体」という重要な要素を考慮に入れた研究があまりにも少なかったと述べて、〈situated bodily practice〉という考え方を提示します。
この〈situated bodily practice〉はこの本の中では、“状況非拘束的身体的実践”というかなり仰々しい訳があてられていますが、これは「衣服が具体的な動きを持つ身体に対してどのように作用しているのか、また衣服とは身体を通じた身体への着目という個人的な行為に関係したいかなる実践なのか」ということを考察していくための、「理論的・方法論的枠組み」なのです。

衣服というのは、なかなか捉えがたい存在です。
たとえばここに1枚のTシャツがあるとします。この1枚のTシャツには、歴史的には労働着や下着としてのはじまりがあり、既存の社会に対するアンチテーゼの意味合いを帯びた時期もあり、今では老若男女が何気なく着るカジュアルウェアとしての位置づけもあります。若々しさやラフさを表す記号でもあります。500円で買えるものもあれば、5万円もする高級ブランドのものもあります。
そんなTシャツを身にまとうとき、わたしという個人は、Tシャツが帯びている様々な社会的意味と、どのように関わりあうことになるのでしょうか。
思っていたより畏まった席で場違いなほどラフなTシャツを着てきてしまったことを悔いて意気消沈するわたし。自分への褒美として大枚はたいて買ったTシャツを着て高揚感に包まれるながら歩くわたし。わたしは、たった1枚のTシャツにその存在の奥深くから揺り動かされ、振り回されるのです。このように衣服を着るという行為を、個人の身体的な実践としてあらためて考え直していくことで、今まで気づかなかったものが見えてくるのではないでしょうか。

長い間、「衣服とはなにか」「着るという行為とはなにか」と漫然と考えてきた私でしたが、この本のページをめくり、〈situated bodily practice〉という考え方にふれて以来、この考え方を足場にして、もう一度しっかり自分も考えを進めてみようという気になったのです。

MOMO

  • 2012/05/12 |
  • 10:00 |
  • ファッション
  • fashionmuseum |
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