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『モードの迷宮』

この美術館ブログは、当番制です。だいたい1ヶ月弱に1度くらいまわってきます。

いつも何を書こうか迷うのですが、今後迷わなくていいように、自分が読んできた服飾文化や身体文化にまつわる本について、ちょっと感じたことなど書いてみようと思います。書評などという大それたことは私個人の力に余ることなので、あくまでも感想やエピソードという形で書いていきます。

で、その第1回は、私のその後の生涯を大きく変えることにもなった1冊、鷲田清一氏の『モードの迷宮』です。

この本のもとになったのは、1987年7月から翌88年の11月まで、氏が『マリ・クレール』という雑誌に書き綴った文章です。最初、この原稿を依頼された時に、氏はかなり悩んだそうです。哲学者、それもフッサールからメルロ=ポンティへと続く現象学に関わる研究者として、“ファッション”などという“軽々しい”ものに関して文章をつづってもいいものだろうか、と。しかし悩んだ挙句、氏はこう考えたそうです。「哲学という重そうなもので、ファッションという軽そうなものを斬ることができるのではないか」、「着るという行為に迫れないでなんの現象学か」。氏は一念発起し、『マリ・クレール』からのオファーを受けることにしました。後日談では、氏が“ファッション”なんぞについて文章を書き始めたことに、氏の哲学の師は嘆かわしいとの言葉を口にしたそうです。

私が、鷲田氏の授業〈倫理学概論〉を履修したのは1989年4月から。ちょうどその直前に先の連載は『モードの迷宮』という1冊の本として出版されました。さぼりすぎて4回生にもなって、まだ一般教養科目が残っていた私は、1、2回生に交じってこの授業を受け、ここで学ぶこと、考えることの面白さに目覚めました。授業が始まってしばらくして、この先生が書いたファッションの本があるという話を聞き、書店でこれを買い求めました。

この本の序章は、パスカルを引きながらこう書かれています。

“ファッションを、相反する動性に引き裂かれた状態、つまりディスプロポーションとしてとらえること、そしてそれを通じて、〈わたし〉の存在がまさにそれであるようなあの根源的ディスプロポーションのなかに分け入ってゆくこと、それが問題だ”

当時、この言葉をどれだけ理解できていたか、そして今どれだけ理解できているかは、甚だ心許ない限りですが、この言い回しに正直痺れました。そして、ファッションや着ることが、十二分に考えるに値する領域であると知ったのです。

あれから20年以上が経ち、こうして「ファッションとはなにか」を考えることを生業としている私ですが、その原点とも言えるのがこの『モードの迷宮』です。考えれば考えるほど、つかもうとするその指先から逃げ去っていくファッションや着衣の問題は、いまだ出口の見えないラビリンスとして、この先も私を解放することはないのでしょう。

 MOMO

  • 2012/03/25 |
  • 10:00 |
  • ファッション
  • fashionmuseum |
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