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『考える皮膚』

先日、大学時代からの友人が切り盛りしている京都四条河原町にあるメディアショップに立ち寄ったところ、港千尋氏の『考える皮膚-触角文化論』が復刊されていることを知り、即効で買いました。この本は1993年に刊行されたのですが、しばらく絶版のままとなっており、アマゾンの中古だと安いものでも5000円以上するので、躊躇してきました。もともと発刊直後に入手し読んだのですが、その後しばらく手元になかったのです。
この本を読んだ1993年は、私が今の職場で働き始めた年でした。学生から社会人となり、これから衣服やメディアについて考えていこうという意欲に燃えていたちょうどその頃にこの本を読み、ずいぶんと刺激を受けた記憶があります。

さて、その本を久方ぶりに開いてみたのですが、冒頭はこんな言葉で書きだされていました。

“人間の手はどんどん貧しくなっている”

ドキッさせて、言葉は続きます。

“インカ帝国の装身具や中世のタペストリーを見て、われわれはそう思う。むかしの人は器用だったんですねえ。年末恒例の蚤の市でみつけた骨董品の見事な細工を見て、われわれの時代はもう、これと同じものを生み出すことができなくなってしまったのだと、忽然と悟るのだ。博物館に漂うある種の寂しさは、もしかすると一種の喪失感に根を持っているのかもしれない”

当時、この本を読んだころは、まだ神戸ファッション美術館は開館の準備中でした。しかも私は、その準備室に勤め始めた一年生。当然のことながら、同じ文章を読んでも今では感じ方が異なります。
たとえば、現在開催中の『世界の衣装たち』展を見ても、『アンティークレースの至宝』展を見ても、まさにここで言われている喪失感を強く実感します。民族衣装にほどこされた細工の一つひとつ。あるいは肉眼で見えないほど細い亜麻糸を刺す一針ひとはり。それらが示す、もはや地上においてそれらを成し得る者がいなくなってしまったという事実は、かつての手の能力の驚くほどの高さを表すと同時に、そこから遠く隔たってしまった私たちの手を実感させずにはいません。

初めて私が『考える皮膚』を読んでから、早いもので17年が経ちました。
この本を再読するまでのあいだには、周囲の状況にも大きな変化が起こっています。
インターネットやメールなどのコミュニケーション技術の登場は、私たちの現実の在り方に少なからぬ影響を与えました。私としては現実感、現実が持つ手触りや肌理のようなものに大きな変化が進行しつつあるような気がします。

“手が触角をつかさどるもっとも重要な器官である以上、その〈退化〉は触角に変化をおよぼさずにはおかないはずである。あるいは逆に技術社会のなかでの触角あるいは皮膚感覚の変化が、すなわち手の〈退化〉として現れているのであるのかもしれない。それはまさしくわれわれが「現実の感触」と言うときの、手触りの問題である”(港、前掲書)

私たちの手の衰えは、そのまま目の衰えにもつながっているように私は思います。
たとえば、18世紀の極薄のバンシュ・レースに目を向けた時、その細やかな糸の運びを卓抜した職人の手の運動として想像することすらできなければ、同時にそのレースは私たちの目にもその実体を現すことはないのです。そういった意味において、手は目に先立つと言えるのではないでしょうか。
新版へのあとがきで港氏はこう書いています。

“赤ん坊も盲人も、そして暗闇に取り残されたわたしたちも、なによりもまず手を前にだす。情報として与えられる以前の世界にたいして、手触りとは、生きるか死ぬかの問題だからである”

すべらかでやたら光沢感ばかりが表を飾る今の時代、目を凝らしても入ってくるのは奥行きのない表面ばかりです。先が見えなく先行きが不透明であればこそ、「現実の感触」を探り当てられる手の復権が、望まれている。この本を今あらためて読みなおしてみて、強くそう感じました。

MOMO